4月

いい働きぶり 男ぶり女ぶり 楽しみな早苗(さな)ぶり

 

昭和32年6月。前川の人々。馬や牛を使うこともあったが、農作業の大半は、人手がたより。一段落すればごちそう作って早苗ぶり4 4 4 4 。惜しみなく働き、惜しみなく汗を流し、惜しみなく愛する。子供たちがどんどん生まれ前川分校は、翌年、1教室を増築し4教室となるも、5・6年生は以後、32年間、本校に通うことに。分校には「へんじ・あいさつ・あとしまつ」の目標があった。前川の人々は明るく、働き者。そして、老いも若きも足が速い。本校での年に一度の運動会ではだいだい色の鉢巻をしめた前川チームは無敵で、特に女子はずばぬけていたという。
ちなみに私は、この写真が撮られた2カ月後のお盆に生まれた。

 

前川の大地と大空の中で


前川小学校は、今から139年前、前川字中西(現在の観音堂)の地に分教場として開設され、以後、2度の移転を経ながら分校、独立と変遷してきました。
この間、多くの子供たちが、前川の大地と大空の中で、知恵をつけ体力をつけてきたのです。また、地域の人々も学び舎に集い、子供たちを見守り支え続けてくれました。
このことは、子供たちに寄り添ってきた先生方と地域の人々の協力の歴史でもあります。
しかしながら、全国的に広がっている少子化の波は、川崎町においても例外ではなく、前川小学校も年々児童数が減少しており、今年度をもって学校を閉じる決断を致しました。

未来ある子供たちのため


長い間、子供たちの元気な声が弾んだ学校、故郷の中心となってきた学校、人々の心の支えとなってきた学校。思い出深い学校を閉じることは地域の皆様にとって、卒業生の方々にとって、とても、辛く、悲しいことではありましょうが、未来ある子供たちのため、ご理解いただきましたことに、心より感謝と御礼を申し上げます。
4月より、前川の子供たちは「川崎小学校」の名のもとに、新しい仲間たちと共に大きな一歩を踏み出すことになります。
時あたかも、コロナの時代。学校を閉じるにあたり、子供たちや保護者の方々、地域の皆様方が望んでいたであろう行事を大々的に開催できなかったこと、本日の閉校式も、限られた人の参加でしか開催できなかったことに残念さもにじみますが、人を大切にする心、人の思いを感じる心、人の為に尽くす心は、前川の子供たちの胸にしっかりと根付き芽吹いています。
やがて、その優しく強い心は、子供たちの未来に大きな花を咲かせ豊かな実を結ぶことでありましょう。そして、この国を、この町を、私たちを導いていくことになります。
最後になりますが、前川地区を支え、前川の学び舎を支えてきた、多くの先輩方、多くの先生方、そして本日、ここに集まってくださった全ての方々にお礼の気持ちを込めて式辞と致します。

令和3年2月27日 前川小学校閉校式にて


中西の観音堂から現在、㈱T・K・Kの工場がある大向に校舎が移ったのは95年前の大正15年3月。1~3年で1教室、4~6年生で1教室に職員室と教員住宅が完成。その後、昭和23年に1教室が増築され3学級複式となる。写真は昭和28年、元気よく学校植林の作業に出発する子供たちと先生方。山も木も財産そのものの時代である。
満開の桜の大木の下で走り回る子供たち。白い2階建ての校舎は昭和46年2月に完成。平成2年3月閉校。19年間使用された。 伝説のだいだい色の鉢巻
PTA地区対抗リレーで優勝。
オリンピック選手みたい。昭和34年9月
川崎小学校には多くの分校があり、運動会は、分校の子も地区民も集まる。地区対抗リレー、これはすごかった。応援もおどげでねぇ。
コースに飛び出すおばあちゃんたち
「ほれ、がんばれ!がんばれ!」
校舎の前で 昭和52年

 

写真提供:川崎町立川崎小学校前川分校
閉校記念誌 ももとせ 平成2年2月発行より

3月

誕生日ってなんだろう?

 

「私は息子を抱いたまま、動けませんでした。…母親は命を懸けて出産に臨みます。赤ちゃんも命を懸けて生まれてくるのです。誕生日は、お母さんが命を懸けて皆さんを生んだ日です…」
町長のスピーチに涙を拭いたり目を閉じる新成人も…。
1月10日 午前10時25分頃 B&G海洋センター

 

本日は、私が町長に就任して初めての成人式での祝辞を紹介します。
町長、目をつぶりフーッと一息つく
やがて、目を開けてから…。

1カ月健診


 成人した皆さんの中に、私の息子もいます。20年前の1月に生まれました。息子が生まれて1カ月、赤ちゃんの1カ月健診があるとのことで妻と仙台の病院へ行くことに。
廊下で順番を待っていますと、40なかばの男性が赤ちゃんを抱いて看護婦さんと何やらヒソヒソと話をしているではありませんか。
(ははぁ~ん。あの色男、若い彼女との間に赤ちゃんができたな。)
そう思った私は、あとから看護婦さんに何気なく聞いてみました。すると返ってきた答えは、驚くべきものでした。
「1カ月前、あの方
かた)の娘さんが出産されたのですが、それはそれは難産で大変でした。結局、娘さんは亡くなり、残された赤ちゃんは、あの方と奥様が育てています。20歳になるまで育てなくてはと。そして、育てあげるためには、これから20年、夫婦とも健康で仲良く生きなければならない。孫娘のためにも。そう2人で誓い合ったそうです。」
(なんということだ。申し訳ないことを考えてしまった。)私は、息子を抱いたまま動けませんでした。

命を懸けて


いつの時代も、医学の進んだ現代でも母親は命を懸けて出産に臨みます。赤ちゃんも命を懸けて生まれてくるのです。誕生日は、お母さんが命を懸けて皆さんを生んだ日です。
あの日、私の息子とともに1カ月健診を受けたあの女の赤ちゃん。あの娘(こ)も、今年、どこかの会場で成人式に出席しているはずです。
皆さんと同じように、綺麗な着物を身に着けて…。

ありがとうの一言を


私たちは、この世に生まれてきました。人生はただ一度。一人ひとりが最善を尽くし、豊かな人生を歩んでくださることを願っております。
改めて、皆さん、心から成人おめでとうございます。
そして、家に帰ったら、今日まで育ててくれた家族に、綺麗な着物や素晴らしいスーツを用意してくれた家族に、「ありがとう」の一言を。

 

2月

のび太の教え 人に優しくしないと後悔する。

 


赤いくつの女の子


のび太が幼稚園児だった頃、隣に女の子が住んでいました。2人は大の仲良しで、毎日一緒に遊んでいました。「ままごとしかできないのび太!のび太はあの子が大すきだもんなぁ」とジャイアンとスネ夫にからかわれたのび太は、顔を真っ赤にして反論します。
「うそだぁ。あんなの大きらいだ」すると2人から、だったら、あの子をいじめてみせろと言われます。そして、のび太は女の子とままごとをしているとき、テーブルの上のお皿やカップを「ガチャ ガチャ」とひっかきまわして、女の子をいじめてしまったのです。しかものび太は、ジャイアンやスネ夫に言われるまま、女の子のお気に入りの赤いくつまで持ってきてしまい…。


てんとう虫コミックス 第6巻
1975年1月1日 初版
2019年12月28日 第211刷発行 429円(税別)

 

 のび太はどうしたの?


このあと、のび太はうつろな気分で過ごしました。次の日から女の子は、病気になって外へ出てこなくなりました。一週間ほどして、のび太はママから、女の子の一家が引っ越したことを知らされました。
「なぜあんなことをしてしまったんだろう」
初恋の人であった女の子を、しみじみ想い出すのび太なのでした。
あああああzzzzああ
ドラえもん 第6巻 第10話「赤いくつの女の子」


 私もあなたも、実はのび太?


「ドラえもん」は日本が活気に満ちていた51年前に誕生したマンガ。登場人物は、どこにでもいそうな感じがしますが、あなたは、その中で誰に一番近いと感じていますか?
おそらく「のび太」ではないでしょうか。あなたも女の子をいじめてしまったのび太の経験はありませんか。私にはあります。相手を傷つけることをしておいて、「その気になればいつでも謝れる」と思っていたら、謝るチャンスはなく、後悔だけが残ってしまう。
こういうことがあるから、普段から人とは仲良く、優しく接しておきたいものです。
私たちは、いつどこで、どんな災害に巻き込まれるかわかりません。今、私たちは、いつどこでコロナに感染してしまうかわかりません。
健康でいることのありがたさを忘れてしまったり、コロナに感染した人を差別したり中傷したりしてはいないでしょうか。

  感染した人々を思いやる


このたび川崎町では、コロナ感染者への差別や偏見をなくそうと呼びかける条例を制定しました。
コロナ禍で閉鎖された都市・武漢の作家、方ファン方ファン氏は「国の文明度を測る基準とは何か」としてこう述べています。
「高いビルがあるかでも、強力な武器やハイテクがあるかでもない。唯一の基準は弱者にどういう態度を取るかだ」と。
私たちは、コロナに感染した人々を思いやり、コロナ禍をともにのりきるべく努力していこうではありませんか。互いに助け合い、支え合ってゆくしか、困難をのりこえるすべはないのです。人は、1人では生きてゆけないのですから…。

 

「のび太」が教えてくれたこと
横山泰行 ㈱アスコム 1,200円(税別)
著者は富山大学名誉教授。大学の入試問題にも使われた「ドラえもん」を分析。のび太の教えとして生きるヒントを学びます。10年前に発行され、シリーズは40万部を突破!!

 

1月

地平線を見据えて ともにコロナを乗り越える

 

始まりは小さなニュース、去年の今頃…。
「中国・武漢 原因不明の肺炎」目立つ扱いではなく、多くの人々は見落としていました。それが、驚くほどの速さで世界へ拡大。全てがコロナに押し流された1年になっていました。
常長まつりやレイクサイドマラソン大会、そして青根温泉感謝祭も中止。感染者、死者も日増しに増加。医療現場は逼迫し、飲食業、観光業、接待業、どんな業界、どんな立場の人であっても、もれなく心身共に疲弊しています。
川崎町は、この1年、コロナに対応すべく、3億9,300万円で46の政策を実施してきましたが、これまで通りに商売が続けられるのか、収入がどのように減るのか、多くの町民の皆さんが、見通しが立たず不安に駆られていることも痛感しております。

一方、この国の借金財政は、もとより世界最悪の水準でした。この1年の巨額の経済対策でそれがさらに悪化するのは誰の目にも明らかです。そのような中、全国1,718の市町村のうち、9割近くが今後の財政悪化を見込んでいます。感染防止対策や冷え込んだ地域経済の活性化を進めるための財政負担に加え、住民の方々から税金をいただくことができるだろうか、という懸念があるからです。
また、公立病院の経営悪化も市町村の財政を圧迫しています。一昨年の9月、厚労省は全国1,455の公的病院のうち、424の病院に再編・統合の議論が必要と公表。幸い、川崎病院はリストに載りませんでしたが、宮城県内でも蔵王町や丸森町など19の病院名が…。そこに今回のコロナ。多くの人々が病院内で感染することを恐れて受診を控えることに。コロナは全ての病院の経営に悪影響を及ぼしていることは言うまでもありません。

 

 「大事なのは感染防止」と「収入が途絶えれば生きていけない」命と暮らし。私たちは、大切なものを天秤にかけるような問題を突き付けられています。私も1カ月前、公務で飛び回っている中で、濃厚接触者となり、町民の皆様にご心配をおかけいたしましたこと、心よりお詫び申し上げるとともに、人と人とを引き離し、人を分断させるコロナの恐ろしさに身もだえしたところです。

 

 これまで、多くの先輩たちが、町づくりの先頭に立ちました。繁栄の時があれば、暗雲の立ち込める時も…。しかし、どのような時も、この町が持ちこたえられたのは、指導者の見識や力量だけで
なく、人々の努力と忍耐があったからなのです。
先人たちは、子供たちのため、家族のため、苦難をしのいでは立ち上がり、気力を振り絞っては、地平線を見据えました。
彼らの価値観は、正直、勤勉、勇気。そして、寛容の中にありました。それは、これからも変わるものではないでしょう。このコロナの中にあっても…。
いつの時代も試練があります。だからこそ、私たちは皆様から与えられた信頼に感謝し、目の前にある課題に対応してまいります。限りのある財源と許された職員の力をもって、町民の皆様とともに
協力し合ってコロナ禍を乗り越えていけると確信しております。